« 2011年9月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月13日 (日)

個人的回想録3 MS-DOSから直接Macへ

またまた前回からの続きです。 大体1986~1995年くらいの出来事です。
 

3. MS-DOSからWindowsを飛ばして直接Macへ

前回、学会や講演会のスライド製作がアナログな青焼きからPC98のCGソフトへシフトしてきた頃までのお話を書きました。

これについては、実は以前ご紹介した同門会誌6号の「パソコンにさわってみよう!」という私の連載第4回1995年に掲載した「コンピュータでスライド製作、今昔」に詳しく書かれています。
この記事は、同時に当時のパソコン通信掲示板 Nifty Serve (現在の@niftyの前身)内にあった歯科フォーラム「親知らず」でも発表しましたが、それが縁で市販のmac用データ集「AMATERAS3」に収載された経緯があります。

1985年最初に医局で導入したCGソフトはシステムソフトのアートマスター400でした。PC9801F時代、表示色はデジタルRGB、つまり3bitの8色のみでした。当然できたスライドは原色とそれをタイリングした中間色の派手ハデです。 はっきり言って使い物にはなりませんでした。
その後、私が購入したPC9801VX、PC9801DAの時代になるとカタログではアナログRGBという表現で、RGB各4bit、計12bitの4096色になりましたが、実際に表示できるのはその内16色のみという、ワケの分からない仕様。 この頃のソフトはツァイトのZ's STAFFでした。工夫次第ではかなり自然な色表現が出来るのですが、イラストやシェーマどまりで写真はだめです。 それでもこの時期、一気にスライド製作がPCに移行しました。 文字やグラフはPCで臨床写真はそのまま使用という形ができていきました。

1989年には98の拡張スロットに装着できるフルカラーフレームバッファが発売されました。フルカラーというのはピクセルごとにRGB各色256階調の計24bit=3byteの約1678万色のデータを持つわけで98の場合640×400画素×3B=750KBのデータ量になります。
MS-DOSでは主記憶に640KBの壁があるわけで、このままでは処理するどころではないわけです。外付けのVRAM(フレームバッファ)をいくつかのブロックに分けてアクセスしながら画像処理、表示させる専用ハードとソフトが必要でした。
ちょうどこの頃、98の小さなメモリを拡張してRAMディスクにし辞書ファイルを置いて動作を早くするのが流行っていました。I/Oデータのバンクメモリ方式やBuffaloのEMSメモリなどがヒット商品でした。1.5MBで3万円とかしてましたね。
フレームバッファもこのRAMディスクと同じ理屈で動かしていたようです。
デジタルアーツから発売されたHyPER-FRAME+&HyPER彩子はハードとソフトのセットですが、それぞれが98,000円、計196,000円!!です。 買いましたよ、医局に貢献するお人よしのパソコンオタクですから(^^; 独身貴族ってやつですねw
ところがこれ、動作がめっちゃ遅いんです。何かひとつ操作して、再描画を始めるとそれだけで2~3分かかります。写真の簡単な切り貼りと文字入れだけで数時間の作業時間なのです。 そんなわけで高額投資したのにあっさり挫折してしまいました。

この頃Windows 3.1が98用にも出ていましたが、グラフィックは16色のまま、テキスト編集もFDD起動では、もっさり重くて使うのがつらい状態で、高価なHDD必須でしたから、とても画像処理なんて出来そうにありませんでした。ある意味MS-DOSの方が成熟していたのですね。
 

そんなとき、AppleのMacintosh に異変が生じました。価格破壊とでもいうべき定価で新機種が発表されたのです。
それまでは、高価、日本語が不得意、でも直感的に操作できる親しみやすいGUIということで、個人での使用では一部の高額所得で英語ができるけど機械が苦手なw医師に人気があった程度で、もともとグラフィックとサウンド処理が得意な設計だったことと、プロユースのソフト(Aldus PageMakerやAdobe Photoshop、Illustratorなど)が当初から開発されたことで主に出版、デザイン、音楽などのクリエーティブ分野の業務用として普及していました。 ベーシックモデルでも80万円、上位機種は100万を軽く超える価格でした。

Centoris650
ところが1993年のシリーズから、今までのほとんど半額の価格設定で発売されたのです。
Centris 650というモデルが335,000円でした。 MC68040/25MHzというモトローラのCPUです。ただ、このままではVRAMが少なくてフルカラーは表示できません。でもさすがはMac、InterWareという日本の会社から内部拡張スロットに装着するフルカラーボードGrandVimage17iが発売され、これがヒット商品になりました。 解像度は1152×870、価格は5万円前後だった気がします。

医局にも当時Appleの販売総代理店をしていたキャノン販売ゼロワンショップの営業がパンフレットを持ってやってきました。今まで高嶺の花だった=CGならいつかはMacと思っていた私は、最初に買った98よりも安い価格設定の誘惑に勝つことができませんでした。
しかし、当時、医局では自他共に98フリークと認めるこの私、98でもここまで出来るぞ、という私の言葉を信じて98で頑張っている医局員にはもちろん内緒で購入しました。[浮気してごめん98(^^;]
Centris 650が私の3台目のパソコン、そして始めてのMacとなりました。

Gv_17iGrandVimage(グラヴィマージュ)をNuBusスロットに増設し、マルチスキャンモニターを接続して、自宅でそっと98と切り替えながら試用してみました。素晴らしく快適にフルカラー画像が編集できます。ソフトも豊富に揃っているようです。何よりもハードとソフトの設定、操作が簡単で感激しました。System 6時代にちょっと触って感じたのは使い易さより反応の鈍さでしたが、今回は違います。モノクロ画面からカラーになっただけではなく、漢字talk 7にOSがバージョンアップし、日本語環境が著しく改善され、標準でAppleTalkというLAN環境が搭載されています。技術の進歩を痛感しました。98でのあの苦労は何だったのだろうと恨めしくもなりました。

2ヶ月後、医局のPC9801FAの隣に17インチのディスプレーと独特のデザインのCentris 650が並ぶことになりました。周辺機器はプリンタ、スキャナー、フィルムスキャナー、フィルムレコーダー、全て98と共用できる様に設定しました。簡単に周辺機器が共有できてしまうのには驚きました。予算の節約という意味もありますが、Macの柔軟性を示してくれました。

実際こうして98とMacと同じ機器を接続してみると、レーザープリンタの出力も、スキャナーからの画像取り込みも自由度が高くてしかも美しいMacの優位性が歴然としてしまいました。画像処理を行う医局員はすぐに虜になってしまい、パソコン嫌いだったK講師などは完全なMacフリークと化し、周りを巻き込んで一斉にMacを個人導入してしまいました。1年もしないうちに医局ではMac6台(LC630、8100、7100等)がLAN(イーサネット)で接続され、レーザープリンタ2台、モノクロおよびカラーインクジェットプリンタ、そしてモデムがすべて共有されると言う状況にまでなりました。

そしてこの後、私のところにMS-DOSの設定等を聞きに来る他の医局の先生たちも、LANでファイルやプリンターを共有し、高品位のレーザープリンターの出力を普通にしてしまうMac環境を目の当たりにし、次第にMacへシフトしていったのです。ひとつ、またひとつとMacがメインの医局が増えていき、DOSからWindowsへ移行した医局が少数派になってしまいました。
 

W1191995年、Windows95が鳴り物入りで発売になりました。推奨ハードの仕様はMacより高性能に見えました。新潟市にはPiCという大きなパソコンショップがありました。社長(本店=万代店店長)の上野さんはI先生の患者さんだったので、98時代には大変お世話になりました。奥様がとても美人だったのが印象的でした。営業マンの技術レベルも高く、トラブル時には電話一本でサポートに来てくれたので、大学中で引っ張りだこでした。週末はいつもPiCを覗きに行って新製品の情報を集めていたものです。Macをメインに使うようになっても、文書処理などはどうしても手になじんだ98の方を使ってしまいます。OS8になる頃(1997)まで、まだ98も使っていました。

S4世の中の流れに遅れたくないと言うことと、PiCにはちょっと疎遠になって申し訳ないという気持ちもあり、ボーナスはたいてショップ(PiC)製のDOS/Vマシンを個人的に購入してしまいました(何という無駄遣い、何という節操の無さ)。90MHzのPentiumにSCSI2/1.4Gのハードディスクを内蔵し、4倍速CD-ROMと230MB対応光磁気ディスク、3モードFDD、64ビットコントロールの1200×1024フルカラー表示可能なビデオボードとちょっとマニアックにチューンしたマシンを購入して、これでMacに負けない環境でスライドができるかと期待したのがあさはかでした。姿は似ていても使い易さはMacOSとは全く違います。スマートに洗練されたMacの操作系と比較してしまうと、どうしてもWindowsは泥臭くて使う気になれませんでした。あとは高級ゲームマシンとしてしばらく遊んだだけでした。(まぁ、後に仕事でどうしてもXPを使わざるを得なかったのでいまでもある程度触ってますけどね^^;)

ということで、すっかりWindowsに失望してしまった私はその後、大学内でひたすらMacのevangelistとして行動するようになったのです。

次回は私が所有した歴代のMac達について書いてみたいと思います。

  〜つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月12日 (土)

プロトロンビン時間測定機器 INRatio2

導入を検討中の医療機器 1

PT-INR測定器 INRatio2メーター  アリーア メディカル

診療所のある地区の特徴かもしれませんが、高齢者の患者さんがとても多いのです。当然、有病者も多く、抗凝固剤のワーファリンを常用されている方が大勢いらっしゃいます。
以前は抜歯などの観血処置を行う場合、内科対診のうえ、休薬していただいていましたが、現在は服用のまま処置することが多くなっています。術後出血を恐れるより、休薬によりせっかく予防していた脳梗塞が起きてしまっては元も子もなくなるからです。

歯科での観血処置程度であれば、見えるところでもあり、縫合するなどして、しっかり圧迫止血すればほぼ確実に止血できます。
とはいえ、患者さんごとに服用量が違います。抜髄程度なら大丈夫と思って対診せずに処置したら、仮封を破って出血してきたこともあります。 急患でその場で処置の可否を判断したい場面が多くあります。

指標として用いられる[PT-INR:プロトロンビン時間-国際標準化比]が内科対診せずに、院内で迅速検査ができればとても助かります。 今まで、手軽にというわけにはいきませんでしたが、最近廉価で簡単操作の検査機器が発売されました。 高精度で短時間(1分間)の測定が指先の穿刺による一滴の血液で出来てしまいます。

保険点数(18)もあるみたいですが歯科で適応されるのかな?
いずれにしろ、ちょっと興味がある器械です。

Inr_m_2

=============================================

で、導入しました(^^  [2012年6月]

歯科での保険適応もOKです。 甲表準用で外来迅速検査となります。

ただし、PT-INRはワーファリン服用時の効果判定のみ有効ですので、他の抗凝固薬を使用している場合は適応されません。

ガイドラインでは、ワーファリン内服患者は24時間以内(最低でも72時間以内)にPT-INRを測定する事になっていますので、同月に何回か抜歯する場合は、その都度、測定し、算定できます。

具体的な請求項目は、

  • プロトロンビン時間測定 18点 PT-INRも含む
  • 血液採取(その他) 6点 採血用穿刺器具で指先から採血時
  • 外来迅速検体検査加算 10点 即日文書で検査結果を提示した場合
  • 血液学的検査判断料 125点 月1回のみ算定可
合計159点ということです。一応、摘要欄に「ワーファリン内服患者のため採血施行」と記載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 7日 (月)

個人的回想録2 初めてのMac、そしてPC-9801と悪戦苦闘

前回からのつづきですね。 大学卒業(1985)〜大学院入学当時(1986)のことです。

 
2. 初めてのMac、そしてPC-9801と悪戦苦闘—N88-BASICからMS-DOSへ

この頃、同じ医局に大学院の先輩のI先生がいました。博士論文を発売されたばかりのNEC PC-9801F2のワープロソフトで打ち込んでいました。講座のゼロックスと比べると8色表示でも、カラフルに見えました。5インチフロッピーで小型でしかも高速でした。 さすがに論文提出が終わるまで触らせてもらえませんでしたが、いわゆるパソコンとの本格的な出会いです。

I先生が大学院を修了した年の夏休み。I先生がこの98(キューハチ)を貸してくれる言うのです。そのかわり、一冊の本を手渡されました。中山書店の「マイコンによる医療統計処理 医用マイコンシリーズ3」という医療統計の本です。東大医学部コンピュータ医療研究会が98のN88-Basicで開発したソフト「STAX」のプログラムリストが巻末に印刷されています(その後FISHERというC言語でリニューアルされたソフトも紹介されました)。別売りフロッピーでプログラムを購入することも可能でしたが、10万円近くします。 98を貸してあげるから、このリスト打ち込めるところまで入力しろということなのです。

大学病院の夏休みなんて1週間です。 はじめて触るBasic言語。1行打ってはSyntax Errorが出ます。結局、憧れのPC98をまるまる1週間、朝から晩まで弄くり回すことはできたのですが、入力できたのはデータファイルの作成と入出力をする部分のユーティリティーだけ。肝心の統計処理のルーチンには全く届きませんでした。
 

夏休み明け、何万行ものリストを打ち込むのはほとんど諦めていたところに、I先生が講演会の話を持ってきました。新潟大学医学部のパソコンクラブが98で利用できるデータベースと統計のソフトについて業者を交えた講演を企画したというのです。渡りに船と早速参加しました。初めて聞くデータベースの基礎に頭痛を覚えながら、dBASE-IIIやLotus-123の使い方を実習し、これで統計も出来るのだと教えてもらいました。ここでSTAXの話もでて、クラブで独自に運用しているものがあるから試用してみたらということで、ちゃっかりコピーさせてもらったりしました。

Hp15c
当時、大学院の実験統計の講義で分散分析のプログラムを書いていました。講義ではヒューレット・パッカードのHP-15cという逆ポーランド式(RPN)プログラマブル電卓を使用していましたが、パソコンで汎用に使えるプログラムをということで、このSTAXの分散分析を利用しようとしていたのです。 理工系の実験では3元配置の実験計画も多く利用されていたのですが、医療統計用ということで、STAXには2元配置までしかプログラムがありませんでした。Basicと統計の両方の勉強になるからと、私は約1ヶ月かけてこれを3元配置に拡張したのです。この後しばらく医局の実験ではこのプログラムで実験結果の統計処理をしていました。
 

98vx
大学院2年生の時、貯金をはたいて自分の98を買いました。初めて買ったパソコンはPC-9801VX2というCPUに16ビットのi80286を採用し、5.25インチFDD-2HD(1.2MB)×2、アナログ16色、FM音源搭載という新製品でした。考えてみれば後に発売されたスーパーファミコン程度以下の能力しかないのに、本体価格43万円、CRT(ブラウン管)にワイヤードットプリンターもつけてフルセットで50万以上を払った記憶があります。 98シリーズの画面解像度はVGAより小さい640×400。RGB各16階調の4096色中16色のみ表示という半端なグラフィック性能。メインメモリはMS-DOSの制約で640KBでした。HDDもオプションで発売されましたがたった20MBで30万円!! 高嶺の花です。

Dfixer3_2
このころワープロソフトの一太郎がベストセラーになっていましたが、なぜかテラ/Queenというソフト(会計ソフトの弥生の前身 日本マイコン製)を使っていました。日本語入力FEP(Front End Processor=フェップ)には付属のFIXER3にVJEの医学辞書を変換して登録し、連文節変換でワープロ専用機より数倍早い処理を誇っていました。

この頃から医局員が各々自分のPCを購入し、仕事に(ゲームに)使用するようになり、最初の難関、システムディスクの設定、製作を当然のように私が担当するようになりました。 MS-DOSの設定ファイル"config.sys"と起動時実行ファイル"autoexec.bat"、FEPを始めとする各種ドライバーソフトを登録した起動ディスクを作って配布したものです。FDDが2台内蔵されているのは、FDD#1をこの起動ディスク(MS-DOSシステム+ワープロ等アプリ1種程度)が占有し、FDD#2にデータディスクを入れて使っていたからです。
今でも、WindowsのHDDがCドライブなのは、MS-DOSでAドライブとBドライブがこの内蔵FDD2台に固定されていた名残ですね。
 

さて、大学院の実験テーマが固まってきた頃、実験機器の制御に98を使うことになり、しかもプログラムを自前で用意する必要が出てきたため、予算もないので約4ヶ月間かけてBasicと悪戦苦闘したのです。 Pc980129n
試料を一定温度のヒーターで加熱したときの温度分布をサーモグラフィで測定するのですが、1台目の98でAD/DAボードを介してヒーターの温度を熱電対で測定しながらPID温度制御用プログラムでサイリスタを駆動して加熱する一方、これとRS-232cで同期させた2台目の98でGPIB(IEEE 488)ボードを介してサーモグラフィーの記録を制御し、複数の測定点の温度データを1秒間隔で記録するという、考えただけでもウンザリするプログラムを書いたのです。1万行を超える、超スパゲッティ・プログラムでしたが、98の良いところはそういった特殊な拡張ボードが比較的容易に手に入ったことですね。 参考資料もたくさん出ていましたから、後は独学の努力と根性、毎日バグ取りで過ごしていました。

自作のプログラムで実験していたのですから、いろいろトラブルもありましたが、なんとか卒業できました。その後Basic言語でプログラムを書く機会はほとんどありませんでしたが、いろいろなアプリのマクロ言語やスクリプトを組む良い練習になったと思います。
 

この時期、インターネットが一般利用される前でしたが、電話回線にモデムを繋いでパソコン通信というのを始めていました。論文の検索に高い使用料を払ってMEDLINEを使うのにJOISに接続していたものです。パソコン通信のサービスに各種の電子掲示板があったのですが、まだ、ユーザーはパソコンオタク的な人が多かったものですから、こうした掲示板でプログラミングや電子制御などの質問をすると即座に専門的な回答が得られ、大変重宝したものです。

大学院修了後、半年ほど富山県小矢部市の北陸中央病院の歯科に出向していました。のんびりとした田舎で、医局の先生方も病院のスタッフもとてもアットホームで、初めての仕事は多少きつかったのですが、気持ちは伸びのびとしていました。ただし、夜9時くらいには全てのお店は閉店。コンビニもなかったので、何もできません。ただ、パソコンに向かって大学の医局で分担していたQuint Year Bookのデータを打ち込んではe-mailで医局に送っていました。
大学に比べるとかなり給料は良かったし、遊びで使う場所もなかったので貯金が大分できて、個人として2台目の新しい98を購入できました。PC9801DA/U2(45万円)です。CPUが32ビット化されたi80386にグレードアップ。FDDも3.5インチ版にしました。 医局に新しいパソコンが届いたら、PC好きの外科部長から早速オファーがw 医療でのPC利用について講演をしてくれというのです。あれ、歯科についてじゃないの? でも好きだからいいやwってことですぐ引き受けちゃいました。

この頃書いた原稿が後に同門会誌の原稿のもとになり、ここのブログで掘り返してご紹介している(恥ずかしいのですけど)記事になっているのですね。

Macintosh512k
ちょっと話は前後しますが、登院時代(1984)だと思います。沖歯科の木暮山人先生が、今度歯科用にMacintoshを販売したいと思うので使ってみてくれと、当時大学で附属病院長をしていた父親のところに、あの惚れぼれとするフォルムの(当時はそんなに魅力的とは感じなかったのですがw)Macintosh 512Kを持って来ました。父親はコンピュータのことは分からないから代わりに試用して感想を教えろと言うことで、私に3ヶ月間預けてくれたのです。 ただし、まだ漢字Talk搭載前の英語仕様で、アプリもついてませんでしたから、マウスと3.5インチフロッピーと白地がベースのモノクロ画面が、医局で見慣れたパソコンとは異質で確かに何か未来的な感覚をもたらしてくれたのです。 でも、このときはただそれだけでした。 数年後の再会まで、その後はすっかり日常から消えてしまいます。 今、振り返って、自分の机に初めて置かれたパソコンはMacだったのだと感慨深いものがあります。

Macとの最初の再会を果たしたのは、4年後のことです。モントリオールで第67回IADRがあったとき(1988)です。留学から戻ったW先生が発表するということで一緒に参加する機会がありました。学会の1週間前に留学先だったミシガン大学に発表の打ち合わせと見学に行ったのです。この旅行はいろいろな経験をした素晴らしいものでしたが、それについてはまた別に機会があったら書いてみたいと思います。

当時、ミシガン大学歯学部図書館にはカイデントセンター(綴りは忘れました^^;)という学生専用のMacセンターがあり、40台以上のMac PulsやMac SEとLaser Writerが設置されLANで繋がれており、学生は自由にアプリの貸し出しを受けて、レポートの作成から印刷までをそこですることが出来ました。教授によってはフロッピーのままレポート提出も可能だと言うのです。
まだ、日本ではパソコンはスタンドアロンで動かしていたし、学生がレポートをワープロで書くなんて考えも及ばない時代です。プリントも感熱紙かドットプリンターでジャギーだらけの見にくい活字で我慢していたのに、ここでのアウトラインフォントの美しいレーザープリンターの出力は相当衝撃的でした。 Macって、いやアメリカってすごいかもと本気で思いました。

さて、この頃、学会発表のスライドはようやくPCで作りCRTの画面を直接撮影する管面撮影で作るのが一般的になってきました。 医局では他大学に先駆けて98導入当初からCGソフトを使ってスライド製作を行っていたのですが、これについては別の記事でご紹介します。
しかし、このスライド作成が学会活動ではひとつのネックになっていたので、後にMacの本格導入につながっていきます。ということで、次回はここら辺からのことを書いていきたいと思います。

  〜つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 6日 (日)

個人的回想録1 パソコンに出会う前の時代

Steve Jobsが亡くなりました。 Mac信者のはしくれの私にとって、これは大きなショックでした。
これで終わった。そんなことはないはずですが、そう感じるに十分なインパクトがある出来事でした。

日中、ニュースを見ていなかったので、家に帰って初めて知り、頭の中は真っ白、何か力が抜けてしまい、妻に何か変なもの食べた?と見当違いな心配をされ、夜遅くまで物思いにふけり、気が付けば夜も白々と明けてくるといった感じでした。

1週間以上経っても、なんとなくそんな鬱な気分を引きずっていましたが、週末の夜の時間を使って、自分とMacとの出会い、パソコン、マイコンとの出会いを回想することにしました。 自分の気持ちが少しでも整理できるようにと。

1. パソコンに出会う前の時代 —電卓から超初期のワープロまで

60年代生まれですから、中学生のとき「答え一発カシオミニ!」の電卓が登場した世代です。一つのLSIに機能を集約させたCPUが開発され、それまでのコンピュータのイメージを一新する小型化が一気に進んだ時代です。最初のCPU、Intel 4004という8ビットのLSIは日本人が設計に携わっているので有名です。部屋いっぱいが机一つに、そして卓上にというわけです。マイクロコンピュータと自分の(my) コンピュータをかけてマイコンという言葉ができました。

Hqcon1a_2Eq1
しかし、電卓のコマーシャルがテレビに流れていても、それがコンピュータの一種であるという意識は当時ありませんでした。電子式卓上型そろばんと「謎の円盤UFO」等のSFドラマに出てくる磁気テープのドラムがカクカク、グルグルしている大型コンピュータとは同じに見えなかったのです。

当時、中学では理科部に所属していました。天文班で昼間、太陽黒点の観測をするのが日課でした。同級生に無線班の電気オタクがいて、当時まだ出たばかりのインテルの基盤キット(i8008)を手に入れて、英語のマニュアルを見ながら、組立てを手伝ったのがコンピュータを意識した最初だったと思います。 数字を表示するネオン管を付けたり、キーボードを自作したりして、動かない、動いたといって騒いでいました。

Tk80
 その後NECから有名なTK-80 (i8080)というキットが出たり、マイコンを扱う雑誌が出たりしましたが、高校卒業まではほとんど縁がありませんでした。 77年アップルが創業され、秋葉原でマイコンショップが乱立し、ちょっとしたブームの時代です。高校生のとき接点があったら、かなりやばいオタクになっていたことでしょう。

Canola163_2
大学に入って、教養課程の物理実習でプログラムを組むというのがありました。簡単な一次回帰式の計算プログラムだったのですが、なぜかはまってしまい、1日かけて二次回帰に拡張したプログラムを打ち込んでレポートにしたものです。 キャノンのキャノーラというプログラム電卓だったと思いますが、BASICに似たものだったと記憶しています。 喫茶店でインベーダーゲームはやりましたが、しばらくコンピュータのことは忘れていました。

Lca01
大学も最終学年になって学士試験や国家試験の準備のため、勉強会が組織され、そんなに出来が良いわけではなかったのですが、頼まれたら断れない性格のため委員を引き受けてしまい、模擬試験の問題集なんかを作ることになりました。この年、日本初のラップトップ型ワープロOASYS Liteが富士通から発売され、学年で購入することになりました。ちょっと大きめのタイプライターのような形で液晶表示部には1行10文字程度しか表示されません。JIS第一水準漢字しか搭載していないため、歯科医学用語を打つのに外字をたくさん登録しなければいけなかったのです。文字は24×24ドット固定でしたから、当時、OASYSの販売もしていたBSNアイネットという地元の計算センターに行って、デスクトップ機を借り第二水準漢字を4倍大印刷させてもらい、これをみて外字をポチポチ、ドットマップを編集して、バブルメモリという弾けてしまいそうな名前のフラッシュメモリ?に登録したものです。 こんな低機能なのに価格は22万円!オプションのメモリが7.5万円!! この機械の操作は一手に引き受けていたので、親指シフトでの日本語入力だけはプロ並になりました。

大学を卒業して医局に残ると、さっそく新人の仕事として導入されたばかりのワープロを打たされました。まだ日本語タイプライターが普通に使われていた時代ですから、ゼロックスの事務用ワープロ専用機Fx−JWPは高価でした。8インチフロッピー2個にシステムディスクとデータディスクをそれぞれ挿して起動すると緑一色のディスプレーに読みにくいギザギザの文字が表示されていました。単語ごとに変換ですから、入力も大変。 しかも使いにくいJISキーボードですから、入力に時間がかかってイライラ。でもフロッピーディスクの扱いやフォーマットの仕方を覚えたのもこの機械です。

まだ、医局の学会発表用のスライドは青焼きがメイン。写植は印刷業者に外注。文字は和文タイプライターという時代ですから、JISキーボードの配置を覚えた(日本語入力はカナ打ちです^^)のを含めてこの1年間は後のPCライフの基盤になったことは確かです。

  〜つづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年12月 »